歴史

白華山 大雲禅寺 の歴史

1.開祖について

(1)開山禅師とは

寿岳宗彭禅師を開山とし後に文奕無学禅師(明治八年、1875年当時、山岡鉄舟や陸奥宗光など維新の元勲とも親交を結び第二代より四度の妙心寺管長を歴任)など多くの名僧を輩出した。

 

(2)大嶋家 菩提寺

大嶋雲四朗光義
 天正十年(1583年)大雲寺を創建し菩提寺とした旗本関領主大嶋雲四朗光義公は、織田信長公、豊臣秀吉公に仕えた武将で弓の名手。関ヶ原合戦後美濃・摂津に一万八千を 、慶長九年(1604年)九十七歳で没した。後に三男大嶋光俊公は、二条城の普請に尽力するなど徳川家康公に重用され、迫間大嶋家の初代を領す。当寺は、六代大嶋四朗義苗公と七代大嶋雲四朗義順公が愛用した甲冑具足(鎧、兜)を所蔵する。(岐阜県関市文化財指定)作は江戸時代初期の有名な甲冑師早乙女家忠。93歳で関ヶ原の戦いに参戦した伝説の戦国武将、大嶋雲八(光義)は、関市伊勢町だけでなく、関市迫間にも”大雲寺”を建立した。大嶋雲八ゆかりの寺です。伊勢町の大雲寺は日蓮宗、迫間の大雲寺は禅宗。大嶋雲八公が天正11年(本能寺の変の後)に建立したと伝えられています。また、大嶋雲八公の三男、光俊が開基とります。大嶋光俊公の子孫は江戸時代、代々旗本となってこの地を治め。大雲禅寺には旗本大嶋家の墓があり、ゆかりの品々が残されています。

(3)旗本大嶋運四郎菩提寺の歴史

①大雲寺縁起

②旗本大嶋運四郎菩提寺の歴史

③大阪城甲本賤ヶ岳合戦図屏風に見える大島光義(大嶌雲八)

④白華山大雲禅寺の甲冑