大雲寺縁起

旗本大嶋運四郎菩提寺 白崋山大雲寺
一、宗派 臨済宗妙心寺派


一、本尊 十一面観世音菩薩


一、由緒 
60歳で織田信長に仕え、以後豊臣秀吉、徳川家康に認められ関藩主で大名となった弓の名手 大嶋雲八光義公がその三男運四郎光俊(開基)の菩提寺とすべく梵岩宗音禅師と、天正年中(1573~1592)に創設し、関郷の大慈山千手院より壽岳宗彭禅師(上迫間村 大平山薬師寺開山)を勧請開山とした。
 その後、宝永3年(1706) 鵜沼大安寺6世壁立禅師分法(弟子)の当寺
3代目住職寂湛玄照禅師が臨済宗妙心寺派として中興開山、現在に至る。
 明治初頭 我が国の廃仏毀釈などの宗教界改革に活躍した文変無学禅師(美濃市神洞出身 妙心寺管長3度16年間)が、当寺の8世邁翁宗俊和尚に16歳から3年間掛錫けしゃく(修行)された。
観音堂  境内にあるお堂で、平安時代の智証大師(円珍 弘仁・寛平(810-898)年間 天台宗比叡山延暦寺座主 迫間不動尊開山)作の正観音菩薩立像と室町から桃山時代の阿弥陀三尊が安置されている。17年に間隔で聖観音菩薩のお開帳があります。次回はお開帳は令和9年。 
これらの仏像は、村の中央迫間山麓に創建された大善寺のご本尊であり、寛文12年(1672)、朽ちた大善寺を迫間の領主4代目旗本大嶋義高公と家臣・村民が京都の仏師により修復し、建物を大雲寺東(現墓地)へ移設した。鵜沼大安寺の6世壁立禅師を招き中興開山し、慈雲山大善寺とした。
明治43年大膳寺は大雲寺と合併し現在に至る。
他に寺宝であった十六善神は、7月18日の初代旗本の命日に十六善神祭として開催され、徐雷神(受験合格)のお札が配布されます。
 尚、大善寺は大正8年(1919)江南市草井へ寺格のみ移転された。


一、寺宝  旗本着用甲冑 十六羅漢軸 旗本7代までの墓碑


一、行事 1月大般若読経 4月お釈迦様花祭り 7月十六善神祭(餅投げ)8月お施餓鬼 12月除夜の鐘つき

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参考―――迫間村の領主―――

高鷲城主鷲見氏一族1330頃 (1470頃万里集九の梅花無尽蔵)
斎藤道三家臣永井隼人1533 迫間口の戦い感状
梅村良沢1565-1600 織田信長中美濃攻め(1565)で、信長から加治田城家臣梅村(涯、岸)良沢に扶助 百五十貫文 領主に、関ヶ原戦い頃に新田開発の願書がある
大島雲八(1600-1604)
大嶋雲四郎一族-(1604-明治)。